2013年4月1日月曜日

西片の歴史


1、西片のあけぼの
本郷台地の支脈である丸山台は標高約20メートルの舌状台地で、西片はその丸山台の台地上一帯に位置しています。先史時代の丸山台は北から南に海に突き出た半島で、台地の足元にまで浅い海が来ていたと考えられます。
 西片の地には旧石器時代人のわずかな痕跡があります。駒込西片町遺跡(西片216)では関東ローム層内から旧石器時代の黒曜石製ナイフ形石器が1点ですが出土しています。獲物を追って原生林の中をここまで来たのかもしれません。
 縄文時代に入ると丸山台での人々の定住も進んだようです。現在の誠之舎庭の南端部にある築山の背後から貝殻層が発見され、人類学者鳥居龍蔵博士等の調査により貝塚と認定されました。この貝塚の周囲や西片子ども広場砂場付近(当時の半島部南端にあたる)からも貝殻層が見つかり、さらに誠之小学校でも貝塚、駒込西片町遺跡からは縄文前期の土器破片などが発見されています。西片のある丸山台一帯は、小高い台地に豊かな森や雑木林が茂り、目の前には魚貝が豊富な海の広がる、縄文人にとって暮らしやすい場所だったのでしょう。縄文時代の末ごろには海水も後退し、谷には沖積平野ができたと考えられますが、西片の記録に再び人々の姿が登場するのは江戸時代に入ってからです。

2、福山藩阿部家の武家屋敷時代
 阿部家は徳川家康の家臣に由来する譜代大名で、阿部家5代正邦は宝永7年(1710)備後(今の広島県東部)福山藩主となります。その後、代々の当主のうち6名が老中職に就いています。なかでも幕末に、ペリーとの間で日米和親条約(1854)を結んだ老中首座、阿部正弘は教科書にも登場する著名な政治家でした。
さて、江戸初期のことです。慶長15年(1610)、阿部家2代目正次は徳川2代将軍秀忠より、本郷丸山に10万余坪の土地を拝領しました。阿部家文書の一つ『粟田私記秘録』には「殿様御馬にて此辺御乗廻し、家従馬蹄の跡へ縄張を致し夫だけ御拝領の由承り候」とその時の様子が書かれています。その範囲は、北は現在の白山上辺りで、火の見櫓がおかれて中仙(山)道を見張り、南はほぼ菊坂下まででした。その頃の丸山辺りは奥州街道がただ一本通っているだけの、人家もないさびしいところであったようです。その後一部を幕府に返上し6万坪余になりますが、この福山藩阿部家の江戸丸山屋敷の土地が明治時代に入って西片町のもととなります。 
 元禄10年(1697)、5代正邦の時に邸内の北部13,000坪を幕府に上地(返上)します。返上した範囲は幕府医師らの拝領屋敷となって丸山新町と称しました。さらに享保10年(1725)、6代正福の時には邸内の西側を幕府に返上し、ここは明治5年に丸山福山町となります。
 最初に丸山の地を拝領したときの表門は中山道に向いていました。元禄の上地以降の表門は石坂を下りきった場所に設けられ、裏門は阿部通りが中山道へ出る口にありました。この表・裏門の位置は以後の江戸期を通して変わりませんでしたが、阿部家が一時引き上げていた福山から再び丸山に戻った明治初期のみ、表門は江戸時代に裏門だった中山道の入り口に設けられています。

 宝永7年(1710)、阿部家5代正邦は備後福山藩主となりました。9代正精は文政元年(1818)に、江戸丸山屋敷内に藩校(福山藩文武教習所)を創立します。また藩校の隣に天文測量場も創立して家臣に天文測量の研究をさせ、その管理を任せられたのは、幕府天文方渋川家で暦学の研究をした石坂常賢でした。常賢は同年に「分度星図」を完成させ、後に幕府の天文方に採用されています。天文測量場は正精没後、文政9年(1827)に廃止されました。
 11代正弘は文政2年(1819)江戸城西丸下の屋敷で誕生し、文政9年(18268歳の時に本郷丸山屋敷に移って、付き人や遊び相手の童児と暮らし始めました。天保4年(183315歳で元服すると侍女の手を離れ、丸山邸内の独立した家屋(西片213)に移り住んで天保7年に家督を継ぐまで側近家臣と起居を共にし、文武に励みます。正弘は25歳で老中に就任し、以後39歳で亡くなるまで幕末のもっとも困難な時期の国政を担当しました。藩主としての正弘は安政元年(1854)、邸内にあった藩校をもとに江戸丸山誠之館を開講、家臣の子弟は8歳になると入学して文武両道の修練に励みました。翌年、国元にも福山誠之館を開講させています。
 安政2年(1855)、安政の江戸大地震が発生、丸山屋敷は地盤が固いため総じて安泰で、家屋の倒壊はわずかでした。一方、辰の口の福山藩上屋敷はかなり倒壊したため、正弘は倒れた家具の下敷きになった正室と共に丸山屋敷にしばらく仮住まいし、江戸城に登城する際には馬で通ったということです。
 幕末に黒船が来航して以来、丸山邸内の稲荷山の崖(現在の清水橋の南あたりの崖)でも大砲が鋳造され、安政4年(18574月には大小砲の空発など誠之館を本陣とした甲冑訓練も行われました。正弘は調練に臨んだ後の6月に病死し、政局に大きな動揺を与えました。

3.「西片町」の誕生と阿部家の町づくり
明治元年(18687月に江戸は東京と改められました。阿部家はその年10月には箱館戦争に出兵、明治2年版籍奉還により阿部家14代当主正桓(まさたけ)は福山藩知事になり家臣と共に福山に引き上げました。同3年には北海道の開拓にも携わり1年間苦心しました。
明治4年に廃藩置県が行われ、正桓は家族・旧臣ともども福山から海路上京し、本郷丸山の地に本拠地を構えることにします。一行が上京した当初は、江戸時代に中屋敷だった丸山屋敷(西片)は大木が切り倒され、家屋も荒れ果てていてすぐには住めない状態だったため、しばらく向島の屋敷に仮住まいした後、丸山を本邸としました。

明治5年(1872)、「西片町」の町名が誕生します。阿部家の差配人・篠田政兵衛が、中山道を挟んで向かい側に当たる駒込片町の人たちと話し合いをして、道の東側にあたる旧来の片町を東片町、西側の旧武家地を西片町としたそうです。
 阿部家では福山から上京して間もなく邸内の大部分に桑や茶を植え、養蚕室も建てるなど養蚕や製茶を本格的に開始、西片2812辺りは当時桑畑の中心で、中央を通る道は「桑の小路通り」とよばれました。明治5年には貸地貸家経営も始め、道路や井戸の整備をしました。明治20年までには現在西片を通る主要な道路のほとんどが開通し、清水橋(から橋)も架けられています。当時邸内の井戸は100か所前後あったようです。

西片町には番地もつけられていましたが、西片町10番地はすべて阿部家の邸内で町の大部分を占め、邸内には福山藩関係者が大勢住んでいました。明治17年(1884)には正桓氏に伯爵号が授けられています。明治21年(1888)、邸内の住宅301戸に、「い」から「と」までの「いろは(以呂波)」番号をつけ、各戸に木札を配布しました。中山道沿いの家は122番の表組としました。西片町10番地は非常に広く、家を探すのも大変で、現在の学校通りと阿部通りの交差する十字路角にあった交番や近隣の交番には、道を尋ねてくる人が大変に多かったそうです。
明治24年には阿部伯爵家の本邸が新築され、門前にできた広場は皆に「大椎の木の広場」と呼ばれ(現在の西片公園の場所)、西片町の人々の集う場となりました。明治36年ごろまでには街灯、水道鉄管、ガス管なども敷設され、明治末から大正にかけては洋館のある和洋折衷住宅も建てられるなど、新しい技術を積極的に取り入れて、阿部家の手により着々と西片町の町づくりが進められていきます。
 阿部家は町内を整備すると同時に教育にも力を注ぎました。丸山屋敷内には江戸時代から藩士子弟の教育のために藩校誠之館が設けられていましたが、明治8年、それを母体として阿部家が土地・資金などを支援し、現在の誠之小学校の前身となる第一大学区第4中学区第十三番公立小学誠之学校が開校しました。同20年には後に第一幼稚園となる幼稚室も小学校内に開設され、同30年に現在地に移転しています。また同23年に養蚕室を利用した誠之舎が竣工し、福山から東京に出てきて勉強する学生たちのための寮となりました。これらの教育施設からは新しい日本で活躍する多くの人々が輩出しています。
 西片町は東京帝国大学などに近かったこともあって多くの学者・文人が住み、明治末期頃には“学者町”と呼ばれるようになりました。

 《この項に関しては、阿部家資料に基づいて書かれた以下の論稿をクリックしてぜひお読みください》
 
4.旧西片町会の創設から解散まで
 明治末期から大正・昭和初期にかけて、西片町には「阿部さま」を中心とした閑静な屋敷町が形成されていきました。そこは武蔵野の自然も残り、家々の庭も整えられた緑豊かな町でした。阿部邸内で園遊会や運動会も催され、子どもたちは初午の祭日に招かれたり、邸内の外庭や「大椎の木の広場」で遊んだりするなど、町の人々は阿部家に敬意と親しみを抱きつつ、西片町の住人であることに誇りをもって暮らしていました。
大正129月、関東大震災が起きました。安政大地震時と同様に西片町の被害は少なく、近隣から大勢の被災者が避難してきて、阿部家本邸の一部や大椎の木の広場(現在の西片公園)にひとまず落ち着きました。西片町の人々は協力して救援活動をしましたが、この活動がきっかけとなり、大震災まもない不安な状況の中で、旧西片町会が創設されました。

 昭和5年阿部家15代正直伯爵は、以前から子どもたちの遊び場だった大椎の木の広場を児童遊園地として整備します。西片町や近隣の町の子どもたちは「阿部(さま)公園」とよんで、大切に遊んでいました。公園の東端には町内を守る夜警の詰所もありました。
 やがて戦争が始まり、戦局の進展に伴って町内の出征者も増え、戦時中に一時「東京市誠之国民学校」と改称した誠之小の講堂では、出陣学徒壮行会も開かれました。町内の家々では防空壕を掘り、隣組組織、防空防火体制も強まって、戦争末期には誠之小の学童疎開も始まります。大戦中、町会役員はじめ町の人の中には、戦災から西片町を守ろうと、疎開もしないで日夜努力した人たちもいました。昭和19年、阿部家は東京空襲に備えて公園南側を国に寄付、その場所に本郷消防署が設置され、西端には火の見櫓も置かれました。

昭和20年終戦、幸いにも西片町は空襲の被害を受けませんでした。昭和22年には連合軍総司令部により全国の町会が解散させられ、旧西片町会もこのとき解散しました。しかし町の人々は6月には西片会館建設委員会を設立し再起を期します。阿部邸洋館はじめ進駐軍に接収された家も多く、公園にはメイドさんに連れられた米軍人の赤ちゃんをよく見かけたそうです。このような状況の中、町の人々の絆は強く、終戦の翌年には青年たちを中心としたサッカーチーム(西片町クラブ)や西片町合唱団が表向きに活躍し、年配組は表立たないよう以前どおり町内の世話をしながら、西片町会が再出発できる日を待ちました。

5.西片町会の再発足そして「西片」へ
 空襲を免れたとはいえ、さすがに終戦直後の西片町は荒廃したままでしたが、焦土と化した各地から転入してきた人や、戦地や疎開から戻った人々で、町の人口は飛躍的に増加しました。やがて禁令の解除により昭和28年には西片町会が再発足し、「西片だより」が創刊されます。町内掲示板や回覧板制度も始まりました。道路や下水道の復旧工事も進み、町の復興が軌道に乗っていきます。

昭和30年には阿部邸の外庭も一般に宅地分譲され、新しく町に住む人々も増えました。阿部邸内には私立阿部幼稚園が開園(後に区立西片幼稚園を経て、現在子育てひろば西片)、その頃は園庭から富士山が望めました。明治・大正・昭和と皆に親しまれてきた公園の大椎の木は衰弱したため伐採され、今は西片公園にたつ記念碑の写真の中に、その雄大な姿をとどめています。

 昭和398月には地番変更により「いろは」番号が廃止され、西片町は隣接地区を合併して「西片1丁目、西片2丁目」となります。町名変更も検討されていましたが、当時の山根静人会長らの大変な尽力により、「西片」の名は残りました。公園には昭和63年に桜の若木が移植され、区立「西片公園」となって25年経った今、西片さくらまつりの立派な主役に成長しています。

6.平成の西片
 昭和後期から平成にかけて相続のために手放されて分譲された土地も多く、町内にはマンションや一戸建て、アパートなどが次々と建って、町の人口もさらに増えました。西片町会の活動はますます活発になり、西片祭り、西片子ども祭り、新年会、新春もちつき会、西片さくらまつり、歳末夜警、誠ラジオ体操会など年中行事も定着、町内はもとより近隣からも大勢の皆さんが参加して下さっています。昨今は防災・防犯のための活動も町内の重要な仕事です。

江戸時代から西片の地に住んだ阿部家には、西片の歴史を語る多くの貴重な資料が保存されていましたが、16代当主・故阿部正道氏のお考えにより、平成23年から文京ふるさと歴史館への寄贈が開始され、これをもとに平成242月、文京ふるさと歴史館で展覧会「伯爵家のまちづくり―学者町・西片の誕生―」が開催されました。
丸山台地と本郷台地を結ぶ橋として明治13年に初めて架橋された清水橋(から橋)は、平成26年に何回目かの架け替え工事が予定されています。この橋も明治時代以来、西片町の人々とともにあったといえるでしょう。
                        
《参考文献》
阿部正道『西片町の阿部家とその時代』西片町会創立50周年記念誌 2004(西片町会)
西片町会『西片だより』
文京区教育委員会『文京のあゆみ-その歴史と文化-2002
*西片の歴史に関して、故阿部正道氏からはご生前に多くのご教示をいただきました。また、文京ふるさと歴史館専門員の加藤芳典氏からは阿部家資料に基づいたご教示を得ました。