2013年12月10日火曜日

年末年始ごみ収集のお知らせ

可燃ごみ
  年内とりおさめ・・・12月30日(月)
  年始とりはじめ・・・ 1月 6日(月)

不燃ごみ
  年内とりおさめ・・・12月21日(土)
  年始とりはじめ・・・ 1月 4日(土)
 
資源ごみ
  年内とりおさめ・・・12月24日(火)
  年始とりはじめ・・・ 1月 7日(火)
 
*粗大ごみ回収は12/29(日)~1/3(金)までお休みです。年末は12/28(土)午後7時まで、
年始は1/4(土)午前8時から受け付けます。
粗大ごみ受付センター:5296-7000 

*家電リサイクル受付センターは、年末は12/28(土)まで、年始は1/4(土)から受け付けます。
家電リサイクルセンター:5296-7200

*ペットボトル店頭回収は、12/31(火)~1/3(金)までお休みです。この間は店頭の回収ボックスに持ち込まないでください。

歳末夜警に参加しませんか?

12月24日(火)~28日(土)

・集 合:午後7時半~

・出 発:午後8時

・集合場所:西片会館

子ども達もたくさん参加しています。30分から1時間くらいですので、お散歩がてら
ぜひご参加ください。

2013年12月6日金曜日

文京区の提案




  • 先代の橋をデザインの原型とした案です。設計の考え方を示している図なので、表現は硬くなっていますが、一つの考え方として評価できます。これをD案とします。  B案、C案も捨てがたいのですが、A案、D案を基本に設計を進めることで文京区に提案したいと考えています。いかがでしょうか。                                      1120日頃までなら文京区は要望を受けることができるそうです。ご意見がございましたらぜひ町会にお願いします
  • 掲載しました写真の拡大版が西片会館の掲示板に貼ってありますので、参考にされる方はご覧になって下さい。         

2013年12月5日木曜日

文京区の回答に対する見解です



(1)石、タイルの模様仕上げは建築・土木で多用されていますが、本物とは異なり、安っぽい仕上げになるので避けたい。打ち放しコンクリートで木目の型枠を使用する仕上げは検討の価値があります。

(2)現在の橋のハンチ(アール)はとても印象的なので、ぜひ継承したい。

(3)A案は現在の橋に近い形なので、スリットの形状を検討して実現できないか要望したい。

(4)B案は歩道が確保できてガードレール等の車止めができれば良いのですが、橋の幅が狭いので難しそうです。クラシックで楽しい橋になるのでしょうが。

(5)C案は道路から見上げると印象的な形で、きれいな橋になるはずですが、施工方法は課題です。耐候性鋼のさび汁は、塗装処理すれば防ぐことは可能ですが、形態的に他の橋よりコストが高くなることは避けられないでしょう。

耐候性鋼:鋼の表面に錆を形成させ保護膜とし、内部まで腐敗しない性質を持つ鋼材。

2013年12月4日水曜日

文京区からA案~C案について回答がありました



  (1)各案共、石やタイル仕上げは落下による第三者被害の恐れがある。石やタイル模様の仕上げ、木目の化粧型枠であれば可能。

  (2)橋両端のハンチ(アール=丸み)は難しい。

  (3)A案:腰のスリットを設けることは可能。ただし、細かくスリットが入ると車の衝突で耐えられない心配がある。

  (4)B案:腰が金属の場合は、車が衝突すると壊れやすい。



  (5)C案:橋の支間長は約19mと短く、アーチ橋とする構造的メリットが少なく、工事費が大幅に増える可能性がある。又、耐候性鋼はさび汁を生じるおそれがある。

2013年12月3日火曜日

清水橋架け替え工事デザイン募集について

清水橋架け替え工事の設計作業が進んでいます。歴史のある橋なので、橋のデザインに要望があれば10月中にご提案下さいと西片だよりでお知らせしましたところ、10月下旬に提案スケッチが出ましたので、文京区の道路課に提出して検討をお願いしました。



〔提案スケッチ〕



2013年10月24日木曜日

平成25年 西片祭り

●9月21日(土)子ども祭り 山車行列



子ども神輿を担ぐ、元気いっぱいの西片っ子


町内を巡行 200人以上の大行列に
お囃子と纏
山車行列の纏 わっしょい!

●9月21日(土)子ども祭り 縁日

人であふれる西片公園


藤棚の緑がまぶしい 

縁日といえば、金魚すくい


暑かったので、かき氷はずっと行列



















つかみどりは大人気

 
フランクフルトに焼きそばも! 
                 景品が豪華!的当て                          
        
         お米も当たる!がらがら抽選

●9月22日(日)白山神社神幸祭  町内神輿巡行
神輿御霊入

天狗のお面をかぶった「猿田彦」


・9月22日(日)白山神社神幸祭 本社神輿渡御 
 
西片交差点から伊勢丹前まで西片町会の担当

西片の半纏を着た男女約200人

夕陽に迎えられての宮入     大変な盛り上がり












2013年9月2日月曜日

西片祭り

◎ 西片祭りは、921日(土)、22日(日)です。

   子ども祭り 9月21日(土)



神酒所(西片会館)前を13時に山車が出発、子ども達がお囃子と共に山車を引いて町内を練り歩き、誠之小学校校庭で折り返して神酒所に戻ります。
引き続き西片公園で縁日開始、山車を引いた子ども達に縁日券を配ります。縁日では、「駄菓子すくい」や「金魚すくい」などで遊べます。フランクや焼きそば、かき氷を食べることもできます。
子ども達の楽しい笑顔でいっぱいの縁日です。ご家族の皆様もお祭りに参加してみませんか。お手伝いいただける方は、ぜひ西片会館までご連絡下さい。


   本社神輿巡行 922日(日)

今年は10年ごとに行われる白山神社神幸祭の年にあたり、本社神輿が17氏子町会を巡行、西片町内も通過します。西片町内は、1010分から1020分頃、丸福公園上(新坂の下)から神酒所(西片会館)まで巡行します。


   本社神輿渡御 922日(日)

22日午後から本社神輿渡御です。17の氏子町会が6つのブロックに別れ、春日町(14時渡御開始)より白山通りをリレー方式で白山神社まで渡御(18時宮入)します。西片担当区間は、西片交差点チャンピオン前からクイーンズ伊勢丹前まで。1435分から155分頃の予定です。



ご質問等がございましたら西片町会事務局まで連絡をお願いいたします。





2013年7月20日土曜日

平成25年度西片祭り実行委員会

いよいよお祭りの季節になってきました。
今年は20年ぶりの白山神社神幸祭です。
つきましては、西片祭実行委員会を下記のとおり行いたいと思いますので、ご出席ください。


日時:平成25年7月28日(日)15時~17時

場所:西片会館

2013年4月1日月曜日

町会の組織と役割

町会長   副会長   理事    監事   事務局


事務・管理部門

○総務部
 総務事務/事務局管理/総会議案書・議事録/会員データ管理/掲示板管理
○経理部
 町会経理/出納事務/町会費取り扱い/予算案・決算書
○会館管理部
 会館利用管理/会館施設管理/鍵管理



広報部門


○文化部
 西片だより/講演会・見学会・座談会/西片資料整理
○ホームページ部
 ホームページ作成・更新/各部情報の収集



地域部門

○防災部
 消防署等と連携/防災対策・災害時活動/防災備品管理(会館内・防災倉庫)
○防犯部
 防災パトロール/歳末夜警/警察等と連携/防犯カメラ管理
○環境部
 区建築課・道路課と連携/工事対応/町内の交通/ゴミ・集団回収
○地域活動部
 学校・向丘青少年健全育成会/青少年のイベント/町内外行事/町内交流促進/講習会



















町会行事

【  1月】 新年会

【  2月】 新春もちつき会

【  4月】 西片さくらまつり

【  5月】 西片町会定時総会

【  6月】 文京あじさいまつり(白山神社)・町会費納入お願い

【  7月】 誠ラジオ体操会・西片祭実行委員会

【  9月】 西片祭り・西片子ども祭り

【11月】 向丘連合まつり(12町会)

【12月】 歳末夜警

西片の地区割りと担当理事




地区別担当理事
1区 一丁目1、3、4
梅村、渡邉
2区 一丁目5、6、7、8,9,10,11
阿部(正)、金子、武田、占部
3区 一丁目12,13,14,15(一部)
朝西、桑嶋
4区 二丁目1,2,3,10,20,21(一部)、22(一部)
太田、塚越
5区 二丁目4,8,9
佐々木、戸塚、針谷
6区 二丁目5.6.7
中澤、長谷美
7区 二丁目11,12,18,19
伊東、岩倉、浪波、古田、後藤
8区 二丁目13,14,15,16,17
阿部(秀)、片貝、西脇、山田、両角



西片町会地区 防犯カメラ運営基準

1 目的              
  この運営基準は、西片町会に設置される防犯カメラについて、犯罪の予防及び抑止を図る
 とともに、その運営にあたり防犯カメラの撮影対象となる者のプライバシーの保護を図るた
 め、設置及び運営について定める。  
   
2 設置者及び管理責任者等  
2-1. 防犯カメラの設置者は、地縁法人西片町会とする。  
2-2. 管理責任者は西片町会会長とし、個人情報の保護に十分配慮して防犯カメラの適正な管理、
  運営を行うことを義務とする。  
2-3. 管理取扱者は町会防災部部長とし、管理責任者を補佐して防犯カメラの適正な管理、運営
  を行うことを責務とする。  
   
3 防犯カメラの仕様  
3-1. 設置する防犯カメラは、カメラに記録媒体を備えたカメラと記録装置が一体型の機器と
  する。  
3-2. 映像監視用のモニターはプライバシー保護のため設置しない。  
   
4 映像又は音声の記録(以下「記録」という。)の保管と廃棄  
4-1. 防犯カメラから取得した記録の保管期間は1週間とする。  
4-2. 記録の編集又は加工は行わない。  
4-3. 保管期間を経過した記録については、映像を復元することができないよう媒体の破砕又は
  映像データの上書き処理により廃棄する。  
   
5 記録の閲覧及び外部提供  
5-1. 記録を外部に提供し、又は閲覧させることができるのは、以下の場合に限定する。
イ) 捜査機関から犯罪捜査の目的で公文書による照会を受けもしくは裁判所の命令を受けた時。
ロ) 個人の生命、身体、健康、財産に対する危険を避けるため、緊急かつ止むを得ないと管理
  責任者が認めた場合。  
5-2. 記録媒体の取り出しは管理責任者又は管理取扱者が行い、必要に応じて捜査機関を立ち
  会わせることができる。  
5-3. 記録媒体は上記5-1に基づき捜査機関に持ち込み、もしくは裁判所に提出するものとし、
  これを閲覧に供する場合は管理責任者又は管理取扱者が立ち会うものとする。
   
6 書面による記録  
6-1. 防犯カメラの設置、運営及び管理に関する苦情を受けた時は、管理責任者が速やかに対応
  し、苦情のあった日、苦情申し出者及び苦情内容を書面により記録する。  
6-2. 管理責任者は、記録を外部に提供した場合は、提供日、申請者、提供内容等を書面により
  記録する。  
   
7 設置場所及び設置の周知方法  
7-1. 防犯カメラは西片町会地区の区域内に別図の通り8台設置する。  
7-2. 町会掲示板に、防犯カメラを設置している旨及び設置者・問合せ先を掲示する。
7-3. 防犯カメラの撮影対象区域及びその近隣に居住する住民に対し、西片町会を通じて配布す
  る文書、掲示等により防犯カメラ設置について周知する。  
   
8 運営基準の改廃  
8-1. 本運営基準の変更又は廃止は、理事会の決議を経なければならない。  
8-2. 本運営基準に定めのない事項については、理事会において協議し決定する。
                 

西片の歴史


1、西片のあけぼの
本郷台地の支脈である丸山台は標高約20メートルの舌状台地で、西片はその丸山台の台地上一帯に位置しています。先史時代の丸山台は北から南に海に突き出た半島で、台地の足元にまで浅い海が来ていたと考えられます。
 西片の地には旧石器時代人のわずかな痕跡があります。駒込西片町遺跡(西片216)では関東ローム層内から旧石器時代の黒曜石製ナイフ形石器が1点ですが出土しています。獲物を追って原生林の中をここまで来たのかもしれません。
 縄文時代に入ると丸山台での人々の定住も進んだようです。現在の誠之舎庭の南端部にある築山の背後から貝殻層が発見され、人類学者鳥居龍蔵博士等の調査により貝塚と認定されました。この貝塚の周囲や西片子ども広場砂場付近(当時の半島部南端にあたる)からも貝殻層が見つかり、さらに誠之小学校でも貝塚、駒込西片町遺跡からは縄文前期の土器破片などが発見されています。西片のある丸山台一帯は、小高い台地に豊かな森や雑木林が茂り、目の前には魚貝が豊富な海の広がる、縄文人にとって暮らしやすい場所だったのでしょう。縄文時代の末ごろには海水も後退し、谷には沖積平野ができたと考えられますが、西片の記録に再び人々の姿が登場するのは江戸時代に入ってからです。

2、福山藩阿部家の武家屋敷時代
 阿部家は徳川家康の家臣に由来する譜代大名で、阿部家5代正邦は宝永7年(1710)備後(今の広島県東部)福山藩主となります。その後、代々の当主のうち6名が老中職に就いています。なかでも幕末に、ペリーとの間で日米和親条約(1854)を結んだ老中首座、阿部正弘は教科書にも登場する著名な政治家でした。
さて、江戸初期のことです。慶長15年(1610)、阿部家2代目正次は徳川2代将軍秀忠より、本郷丸山に10万余坪の土地を拝領しました。阿部家文書の一つ『粟田私記秘録』には「殿様御馬にて此辺御乗廻し、家従馬蹄の跡へ縄張を致し夫だけ御拝領の由承り候」とその時の様子が書かれています。その範囲は、北は現在の白山上辺りで、火の見櫓がおかれて中仙(山)道を見張り、南はほぼ菊坂下まででした。その頃の丸山辺りは奥州街道がただ一本通っているだけの、人家もないさびしいところであったようです。その後一部を幕府に返上し6万坪余になりますが、この福山藩阿部家の江戸丸山屋敷の土地が明治時代に入って西片町のもととなります。 
 元禄10年(1697)、5代正邦の時に邸内の北部13,000坪を幕府に上地(返上)します。返上した範囲は幕府医師らの拝領屋敷となって丸山新町と称しました。さらに享保10年(1725)、6代正福の時には邸内の西側を幕府に返上し、ここは明治5年に丸山福山町となります。
 最初に丸山の地を拝領したときの表門は中山道に向いていました。元禄の上地以降の表門は石坂を下りきった場所に設けられ、裏門は阿部通りが中山道へ出る口にありました。この表・裏門の位置は以後の江戸期を通して変わりませんでしたが、阿部家が一時引き上げていた福山から再び丸山に戻った明治初期のみ、表門は江戸時代に裏門だった中山道の入り口に設けられています。

 宝永7年(1710)、阿部家5代正邦は備後福山藩主となりました。9代正精は文政元年(1818)に、江戸丸山屋敷内に藩校(福山藩文武教習所)を創立します。また藩校の隣に天文測量場も創立して家臣に天文測量の研究をさせ、その管理を任せられたのは、幕府天文方渋川家で暦学の研究をした石坂常賢でした。常賢は同年に「分度星図」を完成させ、後に幕府の天文方に採用されています。天文測量場は正精没後、文政9年(1827)に廃止されました。
 11代正弘は文政2年(1819)江戸城西丸下の屋敷で誕生し、文政9年(18268歳の時に本郷丸山屋敷に移って、付き人や遊び相手の童児と暮らし始めました。天保4年(183315歳で元服すると侍女の手を離れ、丸山邸内の独立した家屋(西片213)に移り住んで天保7年に家督を継ぐまで側近家臣と起居を共にし、文武に励みます。正弘は25歳で老中に就任し、以後39歳で亡くなるまで幕末のもっとも困難な時期の国政を担当しました。藩主としての正弘は安政元年(1854)、邸内にあった藩校をもとに江戸丸山誠之館を開講、家臣の子弟は8歳になると入学して文武両道の修練に励みました。翌年、国元にも福山誠之館を開講させています。
 安政2年(1855)、安政の江戸大地震が発生、丸山屋敷は地盤が固いため総じて安泰で、家屋の倒壊はわずかでした。一方、辰の口の福山藩上屋敷はかなり倒壊したため、正弘は倒れた家具の下敷きになった正室と共に丸山屋敷にしばらく仮住まいし、江戸城に登城する際には馬で通ったということです。
 幕末に黒船が来航して以来、丸山邸内の稲荷山の崖(現在の清水橋の南あたりの崖)でも大砲が鋳造され、安政4年(18574月には大小砲の空発など誠之館を本陣とした甲冑訓練も行われました。正弘は調練に臨んだ後の6月に病死し、政局に大きな動揺を与えました。

3.「西片町」の誕生と阿部家の町づくり
明治元年(18687月に江戸は東京と改められました。阿部家はその年10月には箱館戦争に出兵、明治2年版籍奉還により阿部家14代当主正桓(まさたけ)は福山藩知事になり家臣と共に福山に引き上げました。同3年には北海道の開拓にも携わり1年間苦心しました。
明治4年に廃藩置県が行われ、正桓は家族・旧臣ともども福山から海路上京し、本郷丸山の地に本拠地を構えることにします。一行が上京した当初は、江戸時代に中屋敷だった丸山屋敷(西片)は大木が切り倒され、家屋も荒れ果てていてすぐには住めない状態だったため、しばらく向島の屋敷に仮住まいした後、丸山を本邸としました。

明治5年(1872)、「西片町」の町名が誕生します。阿部家の差配人・篠田政兵衛が、中山道を挟んで向かい側に当たる駒込片町の人たちと話し合いをして、道の東側にあたる旧来の片町を東片町、西側の旧武家地を西片町としたそうです。
 阿部家では福山から上京して間もなく邸内の大部分に桑や茶を植え、養蚕室も建てるなど養蚕や製茶を本格的に開始、西片2812辺りは当時桑畑の中心で、中央を通る道は「桑の小路通り」とよばれました。明治5年には貸地貸家経営も始め、道路や井戸の整備をしました。明治20年までには現在西片を通る主要な道路のほとんどが開通し、清水橋(から橋)も架けられています。当時邸内の井戸は100か所前後あったようです。

西片町には番地もつけられていましたが、西片町10番地はすべて阿部家の邸内で町の大部分を占め、邸内には福山藩関係者が大勢住んでいました。明治17年(1884)には正桓氏に伯爵号が授けられています。明治21年(1888)、邸内の住宅301戸に、「い」から「と」までの「いろは(以呂波)」番号をつけ、各戸に木札を配布しました。中山道沿いの家は122番の表組としました。西片町10番地は非常に広く、家を探すのも大変で、現在の学校通りと阿部通りの交差する十字路角にあった交番や近隣の交番には、道を尋ねてくる人が大変に多かったそうです。
明治24年には阿部伯爵家の本邸が新築され、門前にできた広場は皆に「大椎の木の広場」と呼ばれ(現在の西片公園の場所)、西片町の人々の集う場となりました。明治36年ごろまでには街灯、水道鉄管、ガス管なども敷設され、明治末から大正にかけては洋館のある和洋折衷住宅も建てられるなど、新しい技術を積極的に取り入れて、阿部家の手により着々と西片町の町づくりが進められていきます。
 阿部家は町内を整備すると同時に教育にも力を注ぎました。丸山屋敷内には江戸時代から藩士子弟の教育のために藩校誠之館が設けられていましたが、明治8年、それを母体として阿部家が土地・資金などを支援し、現在の誠之小学校の前身となる第一大学区第4中学区第十三番公立小学誠之学校が開校しました。同20年には後に第一幼稚園となる幼稚室も小学校内に開設され、同30年に現在地に移転しています。また同23年に養蚕室を利用した誠之舎が竣工し、福山から東京に出てきて勉強する学生たちのための寮となりました。これらの教育施設からは新しい日本で活躍する多くの人々が輩出しています。
 西片町は東京帝国大学などに近かったこともあって多くの学者・文人が住み、明治末期頃には“学者町”と呼ばれるようになりました。

 《この項に関しては、阿部家資料に基づいて書かれた以下の論稿をクリックしてぜひお読みください》
 
4.旧西片町会の創設から解散まで
 明治末期から大正・昭和初期にかけて、西片町には「阿部さま」を中心とした閑静な屋敷町が形成されていきました。そこは武蔵野の自然も残り、家々の庭も整えられた緑豊かな町でした。阿部邸内で園遊会や運動会も催され、子どもたちは初午の祭日に招かれたり、邸内の外庭や「大椎の木の広場」で遊んだりするなど、町の人々は阿部家に敬意と親しみを抱きつつ、西片町の住人であることに誇りをもって暮らしていました。
大正129月、関東大震災が起きました。安政大地震時と同様に西片町の被害は少なく、近隣から大勢の被災者が避難してきて、阿部家本邸の一部や大椎の木の広場(現在の西片公園)にひとまず落ち着きました。西片町の人々は協力して救援活動をしましたが、この活動がきっかけとなり、大震災まもない不安な状況の中で、旧西片町会が創設されました。

 昭和5年阿部家15代正直伯爵は、以前から子どもたちの遊び場だった大椎の木の広場を児童遊園地として整備します。西片町や近隣の町の子どもたちは「阿部(さま)公園」とよんで、大切に遊んでいました。公園の東端には町内を守る夜警の詰所もありました。
 やがて戦争が始まり、戦局の進展に伴って町内の出征者も増え、戦時中に一時「東京市誠之国民学校」と改称した誠之小の講堂では、出陣学徒壮行会も開かれました。町内の家々では防空壕を掘り、隣組組織、防空防火体制も強まって、戦争末期には誠之小の学童疎開も始まります。大戦中、町会役員はじめ町の人の中には、戦災から西片町を守ろうと、疎開もしないで日夜努力した人たちもいました。昭和19年、阿部家は東京空襲に備えて公園南側を国に寄付、その場所に本郷消防署が設置され、西端には火の見櫓も置かれました。

昭和20年終戦、幸いにも西片町は空襲の被害を受けませんでした。昭和22年には連合軍総司令部により全国の町会が解散させられ、旧西片町会もこのとき解散しました。しかし町の人々は6月には西片会館建設委員会を設立し再起を期します。阿部邸洋館はじめ進駐軍に接収された家も多く、公園にはメイドさんに連れられた米軍人の赤ちゃんをよく見かけたそうです。このような状況の中、町の人々の絆は強く、終戦の翌年には青年たちを中心としたサッカーチーム(西片町クラブ)や西片町合唱団が表向きに活躍し、年配組は表立たないよう以前どおり町内の世話をしながら、西片町会が再出発できる日を待ちました。

5.西片町会の再発足そして「西片」へ
 空襲を免れたとはいえ、さすがに終戦直後の西片町は荒廃したままでしたが、焦土と化した各地から転入してきた人や、戦地や疎開から戻った人々で、町の人口は飛躍的に増加しました。やがて禁令の解除により昭和28年には西片町会が再発足し、「西片だより」が創刊されます。町内掲示板や回覧板制度も始まりました。道路や下水道の復旧工事も進み、町の復興が軌道に乗っていきます。

昭和30年には阿部邸の外庭も一般に宅地分譲され、新しく町に住む人々も増えました。阿部邸内には私立阿部幼稚園が開園(後に区立西片幼稚園を経て、現在子育てひろば西片)、その頃は園庭から富士山が望めました。明治・大正・昭和と皆に親しまれてきた公園の大椎の木は衰弱したため伐採され、今は西片公園にたつ記念碑の写真の中に、その雄大な姿をとどめています。

 昭和398月には地番変更により「いろは」番号が廃止され、西片町は隣接地区を合併して「西片1丁目、西片2丁目」となります。町名変更も検討されていましたが、当時の山根静人会長らの大変な尽力により、「西片」の名は残りました。公園には昭和63年に桜の若木が移植され、区立「西片公園」となって25年経った今、西片さくらまつりの立派な主役に成長しています。

6.平成の西片
 昭和後期から平成にかけて相続のために手放されて分譲された土地も多く、町内にはマンションや一戸建て、アパートなどが次々と建って、町の人口もさらに増えました。西片町会の活動はますます活発になり、西片祭り、西片子ども祭り、新年会、新春もちつき会、西片さくらまつり、歳末夜警、誠ラジオ体操会など年中行事も定着、町内はもとより近隣からも大勢の皆さんが参加して下さっています。昨今は防災・防犯のための活動も町内の重要な仕事です。

江戸時代から西片の地に住んだ阿部家には、西片の歴史を語る多くの貴重な資料が保存されていましたが、16代当主・故阿部正道氏のお考えにより、平成23年から文京ふるさと歴史館への寄贈が開始され、これをもとに平成242月、文京ふるさと歴史館で展覧会「伯爵家のまちづくり―学者町・西片の誕生―」が開催されました。
丸山台地と本郷台地を結ぶ橋として明治13年に初めて架橋された清水橋(から橋)は、平成26年に何回目かの架け替え工事が予定されています。この橋も明治時代以来、西片町の人々とともにあったといえるでしょう。
                        
《参考文献》
阿部正道『西片町の阿部家とその時代』西片町会創立50周年記念誌 2004(西片町会)
西片町会『西片だより』
文京区教育委員会『文京のあゆみ-その歴史と文化-2002
*西片の歴史に関して、故阿部正道氏からはご生前に多くのご教示をいただきました。また、文京ふるさと歴史館専門員の加藤芳典氏からは阿部家資料に基づいたご教示を得ました。

ごみ収集とリサイクル


ごみ収集(可燃・資源・不燃):分別して町をきれいに
    ――当日の朝8時までに出しましょう――

(1)ごみ収集日
 ・可燃ごみ:月曜日・木曜日
 ・資源ごみ:火曜日
 ・不燃ごみ:第一・第三土曜日
 ・新聞・雑誌:毎月第二金曜日(古紙リサイクル集団回収で町会収入になります)

(2)分別の方法
 ・可燃ごみ:生ごみ・発泡スチロール・プラスチック製品・革製品・CD等。
 ・資源ごみ:缶(スプレー缶、カセットボンベ)・ビン・ペットボトル・段ボール+新聞・雑誌・チラシ等。
        ※ スプレー缶類は使い切ったものを、穴を開けずに透明袋に入れます。
※ 新聞・雑誌はなるべく第二金曜日の町会集団回収へ。
 ・不燃ごみ:ガラス・陶磁器・金属・アルミホイル・傘・電池・スプレー缶・カセットボンベ等。
※使い残しの スプレー缶・カセットボンベは透明袋に入れ「危険」と表示します。その他、
割れたガラスや刃物等も紙などでくるみ「危険」と表示する。
 ・筒形電池、インクカートリッジは向丘地域活動センター(本郷通り沿い、六中と地下鉄エレベータ入口の間)に回収箱があります。本郷郵便局二階にもインクカートリッジの回収箱があります。
   
(3)分別方法の詳細は、文京区のホームページから「文京区/ごみと資源の分け方・出し方」をご覧ください(ごみと資源の分け方・出し方PDF)。

(4)ごみ一般についてのお尋ねは文京清掃事務所へ
電話:03-3813-6661 ファックス:03-3816-3981 (〒112-0004 文京区後楽1-7-29)
粗大ごみ(有料)申込みは事前申込電話03-5296-7000へ。


(5)カラスや小動物がごみを散らかして困っている!!という皆さま。
・どなたでもごみネットが簡単な書類に記入するだけで借りられます。管理は自前です。持ち帰り用に大きめの紙袋など持参すると便利です。
 ※ ネットが借りられる所は、
・向丘地域活動センター:向丘1-20-8 電話03-3813-6668
・シビックセンター17階(文京区リサイクル清掃課):直通電話03-5803-1184