2013年4月1日月曜日

西片町会 地図


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★昔の町内地図

  ▶大正から昭和2年ごろ

  ▶昭和30年代
 

町会加入案内


地縁法人西片町会は、旧「駒込西片町」区域に昭和28年(1953)以来再建されていた西片町会が、平成12年(2010)地縁法人として認可された団体です。この区域に住所を有するすべての個人は町会員(構成員)になることができます。入会手続きは、規約上、所定の入会申込書を提出していただくことになっておりますが、町会費の振込票をもって入会申込書に代えることができます。会員は、一世帯あたりの所定の会費(別掲「町会費納入のお願い」参照)を拠出していただくことになっております。
旧「駒込西片町」区域とは、規約上、西片1丁目1番、2番1・19号、3番~14番、15番1号の一部、及び2丁目1番~18番、19番1~15号・24号の一部、25~27号、20番、21番1・2・13号、22番2~16・18号の区域と規定されております。
町会は、地域の防犯、防災、環境問題などに加え、周辺地区と連携した各種の活動を行っております。新年会、もちつき、さくら祭り、西片祭り、年末夜警などの行事もあります。是非ご入会のうえ、町会活動に積極的にご参加くださるようお願い申しあげます。

入会申込書、町会振込票は町会事務所に用意してあります。









2013年3月1日金曜日

西片散歩

「西片散歩」は以下を参考にしました。

文京ふるさと歴史館特別展図録『文京・まち再発見-近代建築からのアプローチ-』2008
文京区教育委員会『ぶんきょうの坂道』第5刷 1991
筑摩書房 明治文学全集30『樋口一葉集』1984
西片町会名誉会長・阿部正道氏及び文京ふるさと歴史館専門員・加藤芳典氏によるご教示

*写真掲載の住宅は現在もお住まいとして使用されていますので、どうかそっと外からご覧ください。
  

新坂〔福山坂〕(西片1-12,13と2-6の間)

西片公園の前の道(「公園通り」)をまっすぐ西に行くと、ヴィラロイヤルマンションへ向かって下る坂がある。マンションの前を右に大きく曲がり、その先で左へ急カーヴする坂と、右に緩やかに下りる広い坂に分かれる。左へ急カーヴで曲がる坂道は明治20年(1887)に開通し、新しく開かれた坂なので新坂と命名された。明治から大正にかけ、新坂の上から白山方面を眺めると、植物園近くや氷川下の乳牛牧場で牛が草を食む光景が見られたという。右へ緩やかに下りる広い坂は昭和5年(1930)に道筋を変更して整備し直した(新)新坂で、福山坂ともよばれる。現在はマンション前から白山通りに下りる広い方の坂を新坂〔福山坂〕と呼び、左へ急カーヴで曲がる旧新坂には特に名称がない。
西片からの下り口すなわちヴィラロイヤルの手前をすぐ左に曲がれば、夏目漱石の旧居跡(魯迅旧居跡)があり、漱石はこの家で『虞美人草』を書いた。漱石が1年もたたずに引っ越したのち、同じ家に魯迅が友人ら5人とともに移り住んでおり、門灯には「伍舎」と書いてあったそうだ。この坂を下りきり旧丸山福山町に出て白山通りを南に少し行くと、樋口一葉終焉の地がある。


石坂(西片1-3と1-14の間)

中山道と清水通り(から橋通り。便宜的に言問通りともよばれる。正式には弥生町交番の交差点から東が言問通り)をほぼ南北に結ぶ「阿部通り」の南端は大きく曲がった広い坂道となっている。
西片が福山藩主阿部家の武家屋敷だった時代より、中山道の出入り口から邸内を南北に縦断する主要道路(西御殿前通り)が通っていた。この坂道はその南端部に開かれていた切通しの急坂で、当時は石の階段が設置されていたので石坂と呼ばれ、坂上に物見楼、坂下に阿部家の表御門があった。明治5年(1872)には近隣の人々も通行できるようになったが、明治31年(1898)、坂道のルートをより東方向へまげて、現在のようなS字状の広い坂道とした(新「石坂」)。新しい石坂をひらく時にキツネの穴が二つ出てきたので、油揚げで誘い出して阿部邸の外庭の方へ移ってもらったという話が伝わっている。現在の西片サニーハイツマンションを建てる時に、阿部正道氏がもともとの石坂の下り口を調査したところ、新発田育英舎裏まで続く石畳の坂の一部分が残っていたそうである。
樋口一葉は菊坂に住んでいたころ、急坂だった旧石坂を上って、現在の西片1-11にあった師・半井桃水の寄宿先を訪ねている(桃水は、明治25年3月より従姉の夫である旧福山藩士の河村家に寄宿)。また坂を上り阿部伯爵邸辺りを経て本郷の通りまで散歩した日には、次の日記を残した。
   夕方より邦と共に散歩なす 田町より丸山にのほり阿部邸より本多邸をへて本郷の通りに勧工場二ヶみる

(蓬生日記 明治26426日)

胸突坂〔峰月坂・新道坂〕(西片2-14,15と白山1-24の間)

誠之小学校を出て左方向に行くと、中山道に上る急な坂道にぶつかる。これが胸突坂で、「丸山新町と駒込西片町との界にある坂を胸突坂といふ、坂路急峻なり、因って此名を得、左右
石垣にて、苔滑か」と『新撰東京名所図会』にある。元禄10年(1697)に福山藩主阿部家の屋敷地の内、この坂より北側を幕府に上地(返却)し、その範囲は幕府医師などの拝領領地となって丸山新町と称した。
 武家屋敷時代には誠之小学校前の道から胸突坂に出るところには門(無常門)があり、門のそばの左角には大榎の木が明治期以降まであったようだが、今はない。