2013年3月25日月曜日
2013年3月1日金曜日
西片散歩
「西片散歩」は以下を参考にしました。
文京ふるさと歴史館特別展図録『文京・まち再発見-近代建築からのアプローチ-』2008
文京区教育委員会『ぶんきょうの坂道』第5刷 1991
筑摩書房 明治文学全集30『樋口一葉集』1984
西片町会名誉会長・阿部正道氏及び文京ふるさと歴史館専門員・加藤芳典氏によるご教示
新坂〔福山坂〕(西片1-12,13と2-6の間)
西片からの下り口すなわちヴィラロイヤルの手前をすぐ左に曲がれば、夏目漱石の旧居跡(魯迅旧居跡)があり、漱石はこの家で『虞美人草』を書いた。漱石が1年もたたずに引っ越したのち、同じ家に魯迅が友人ら5人とともに移り住んでおり、門灯には「伍舎」と書いてあったそうだ。この坂を下りきり旧丸山福山町に出て白山通りを南に少し行くと、樋口一葉終焉の地がある。
石坂(西片1-3と1-14の間)
樋口一葉は菊坂に住んでいたころ、急坂だった旧石坂を上って、現在の西片1-11にあった師・半井桃水の寄宿先を訪ねている(桃水は、明治25年3月より従姉の夫である旧福山藩士の河村家に寄宿)。また坂を上り阿部伯爵邸辺りを経て本郷の通りまで散歩した日には、次の日記を残した。
夕方より邦と共に散歩なす 田町より丸山にのほり阿部邸より本多邸をへて本郷の通りに勧工場二ヶ處みる
(蓬生日記 明治26年4月26日)
胸突坂〔峰月坂・新道坂〕(西片2-14,15と白山1-24の間)
曙坂〔徳永坂〕(西片2-7と2-14の間)
曙坂は白山と西片を結ぶ通路として通学や生活に利用されてきたが、昭和22年(1947)に旧丸山福山町・曙会の尽力により石段坂に改修され、それで曙坂という。桜の季節に曙坂下を通る道から崖上の誠之小学校の裏庭を見上げると、何本もの満開の桜が見事だ。
西片公園(西片2-3)
(現存)
西片会館(西片1-5)
清水橋(から橋)
明治39年(1906)頃には福山出身の建築家武田五一の設計により2代目の木橋に架け替えられた。夜遅く阿部伯爵が清水橋を渡って帰宅されるときは、木橋を渡る馬車の音が静かな西片町に響き渡り、それを合図に阿部家では皆が玄関に出てお迎えしたという。
樋口一葉は日記に、上野の図書館からの帰り道に空橋の下を通った時、書生らしき人物に冷やかされたことを書き残している。
空橋のした過る程若き男の書生なとにやあらん打むれてをはしま(註:橋の欄干)に依かゝりてみおろし居たるか何事にかあらんひそやかにいひて笑ひなとす しらすかほして猶いそきにいそけはひとしく手を打ならしてはうさくにもこちむき給えなといふ。何の心にていふにや 書のかたはしをもよむ人のしわさかとおもへはあやしくも成ぬ
(原文のまま。 わか艸 明治24年8月8日)
明治45年(1912)から昭和19年(1944)まで西片町に住んでいた佐々木信綱は、次のような歌を詠んでいる。
から橋の上ゆ眺むればけぶりの色 木立の色も秋としなれり
第一幼稚園
誠之小学校(西片2-14)
福山藩阿部家第11代藩主阿部正弘は、藩士の子弟を育成するために嘉永6年(1853)、福山藩中屋敷内の藩校を江戸丸山誠之館と改称し、翌安政元年(1854)に開講した。誠之という名は、「誠ハ天ノ道ナリ、之ヲ誠二スルハ人ノ道ナリ」とある儒学の古典「中庸」からとったという。この誠之館が文京区立誠之小学校の前身で、明治8年(1875)に阿部家14代正桓(まさたけ)伯爵の援助(土地、校舎など)を受けて開校。平成25年(2013)には創立138周年を迎え、この間大勢の多彩な卒業生を輩出している。誠之小学校の史料館には、誠之小と阿部家、西片町とのつながりを伝える貴重な資料が数多く保存されている。
なお誠之小学校・第一幼稚園前から清水通り(から橋通り)までを結ぶ一直線の道路は「学校通り」と呼ばれているが、江戸時代から阿部家丸山屋敷内の主要道路(大通り)として開かれていた。
誠之小学校は平成29年(2017)から33年(2021)にかけて、仮校舎建設からはじまる全面改築工事が行われる。詳細は、文京区の「誠之小学校改築だより」
http://www.city.bunkyo.lg.jp/kyoiku/kyoiku/gakko/campus/seishi_kaitiku/y.htmlをご覧ください。(2017年7月記)
誠之小学校は平成29年(2017)から33年(2021)にかけて、仮校舎建設からはじまる全面改築工事が行われる。詳細は、文京区の「誠之小学校改築だより」
http://www.city.bunkyo.lg.jp/kyoiku/kyoiku/gakko/campus/seishi_kaitiku/y.htmlをご覧ください。(2017年7月記)
子育てひろば・西片(西片1-8)
平成9年(1997)開設。西片はもとより、近隣の町々から、入学前ぐらいまでの子どもた ちが父母、祖父母等に連れられ、時にはお弁当を持って通ってくる。ゆったりしたプレイ ルームには遊具やおもちゃ、絵本などが豊富に揃い、テーブルもあって、お弁当もみんな で広げられる。屋外も整備されており、砂場、ジャングルジム、ブランコ、滑り台などが 設置され、夏には水遊びもできる。数名の経験豊かな専門指導員の先生方が見守ってくれ ていて、子育てに役立つ催しも開かれている。
この地はかつて阿部伯爵家の本邸があった場所で、ここに昭和30年(1955)「阿部幼稚園」が開園した。当時園庭からは富士山が望めた。幼稚園は昭和47年 に閉園、49年には文京区立「西片幼稚園」として,新たに開園したが、平成8年休園。翌9年「区立子育てひろば西片」となった。

平野邸(西片2)
田口卯吉旧居(西片2)
長岡半太郎旧居跡(西片1)
阿部伯爵邸跡(誠之舎・邸内車寄せ跡・邸内マンホール他)(西片1)
阿部伯爵邸跡(誠之舎・邸内車寄せ跡・邸内マンホール他)(西片1)
阿部正桓伯爵は明治期に入り、西片町の邸内で養蚕事業を開始した。養蚕事業が下火になった明治23年(1890)、養蚕室を福山藩出身者の学生寮に転用し、誠之舎と名付けた。最初は現在の日銀寮の地にあったが、後に阿
部家本邸の屋敷跡地に新築した。誠之舎の建物の南側には今も阿部邸時代の築山の一部、庭園の石組みや石灯篭、川跡や石橋、桜の大木などの樹木が残っている。なお阿部伯爵邸の大玄関と大広間は民間会社が購入して南軽井沢に移築保存、応接間の一部は白山神社に寄贈された。
誠之舎を出て北方向の四辻(西片1-10)の角に、4本に枝分かれした「マテバ椎の木」がある。明治24年(1891)に新築された阿部伯爵邸の表門は現在の公園西端の向かい辺りにあった。その表門と大玄関との間の車寄せ付近には大きなマテバ椎の木がこんもりと繁っていたが、そのひこばえ(切り株から出た若い枝)が現在のものである。このあたりには立派な井戸があって、かつて白山神社の祭りのときには、西片町会はじめ柳町、八千代町、指ヶ谷町各町会の神輿が邸内に入り、担ぎ手が井戸の水で身を清めた後、表玄関前に神輿を担いで勢揃いしたという。
西片1の某邸敷地内には、阿部伯爵邸内で使われていたマンホールの蓋がそのまま残っている。四角形で中央に「阿」の字、周囲に「本郷西片町」とある。同様のマンホールの蓋は、誠之小学校の史料館や文京ふるさと歴史館にも保存されている。
西片1の石坂沿いの某邸の塀の下半部は、隣の阿部家の石垣とともに、明治24年完成の阿部伯爵邸の石垣がそのまま残ったものである。このお宅のご先祖は旧福山藩士で、つい最近まで阿部家の鷹の羽紋付きの鬼瓦がのった表門が残っていた。
樋口一葉終焉の地(西片1-17-8)
その他
その他にも、明治から昭和の初めに建てられた住宅が残っています。又、「西片町十番地いろは番号」時代の表札(十番地いの一号、拾番地への二十四号、本郷区駒込西片町拾番地いの二十五号)や、小石川局時代の電話番号札がそのまま掛けられているお宅があるので、興味のある方は探してみて下さい。
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